F-1名勝負の2ー1986年オーストラリアGP

 この年のチャンピオン争いは混沌としていた。
 最終戦のオーストラリアまで、ウイリアムズホンダに乗る“ナイジェル・マンセル”と“ネルソン・ピケ”、マクラーレンポルシェに乗る“アラン・プロスト”の3人が僅差で争っていたのだった。
 ピケとプロストは優勝することが絶対条件であり、優勝してもマンセルが4位以下に沈まなければチャンピオンはあり得ないと言う、厳しい条件だ。

 一方のマンセルは、3位に入りさえすればチャンピオンが確定する。
 予選ではこの年、圧倒的な強さを誇っているウイリアムズの2台がフロントローを占めた。マンセル、ピケの順番だ。
 そして3番手にはロータス・ルノーを駆る、アイルトン・セナが意地を見せてセカンドローにつけていた。
 そしてプロストは、トップのマンセルから遅れること1秒2で4番手につけたのだった。プロストの僚友“ケケ・ロズべルグ”は、予選7番手に沈んでいた。
 ウイリアムズの2台は共にチャンピオンを争っており、どちらにも僚友をバックアップする体制を取らせることはできず、マクラーレンもロズべルグが7番手に沈んだため、プロストの援護射撃は難しくなっていた。加えて、ロズべルグはこのレースを最後に、F-1からの引退を表明していたのだった。
 しかし、ロズべルグは「自分は必ずプロストを援護する」と言いきってもいたのだ。

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 1986年10月26日、アデレードの市街地コースは曇天だった。
 その曇天の空の下で、82周のレースの火ぶたは切って落とされた。
 スタートを失敗したマンセルは、何と7位のロズべルグにまで抜かれてポジションを落とした。
 一方、スタートでトップにたったのはピケだった。しかし、快走するピケを7週目には、なんとロズべルグが抜いてトップにたったのだった。
 ロズべルグの走りは、まるで燃費を無視したような強烈さであり、ウイリアムズの二人と、ロータスのセナをどんどん引き離していった。ロズべルグは自分の引退レースにもかかわらず、ペースを撹乱する囮の役割を果たすつもりなのは、間違いのないところだったのだ。
 
 その後もロズべルグの快走は続いた。
 そのロズべルグのかなり後方では、マンセル、ピケ、プロストが激しいバトルを繰り広げていた。ロズべルグの存在がなければ、この3人のバトルがトップ争いになるのだ。それぞれに、各コーナーで相手のインをとり、ノーズを相手の内側にねじ込もうと必死になり、先行している者は必死にドアを閉める。
 フロントスポイラーが相手のサイドポンツーンに触れる寸前まで、後続の者はインにノーズをねじ込む。
 ストレートではスリップストリームから抜けだし、コーナーの手前で先行車に並びかけ、一気にコーナーの飛び込みで抜きさるが、次のコーナーでまた抜き返される。
 この繰り返しが、3人のタイヤをかなり消耗させることになった。
 激しいバトルはいつ果てるともなく続いていたが、32周目にプロストがバックマーカーになっていたベネトンの“ゲルハルト・ベルガー”をラップする時に軽く接触してしまい、右のフロントタイヤを痛め、タイヤ交換のためのピットインを余議なくされた。
 交換したプロストのタイヤを見た、グッドイヤーの技術者たちは思ったよりもダメージがないタイヤをみて“無交換”でいけると判断し、各チームに情報を流した。
 この結果、ウイリアムズも、マクラーレンもタイヤ交換はしない方針をうちだしたのだった。

 しかし実際には見た目よりも各マシーンのタイヤは、深刻なダメージを受けていたようであり、63週目にまずはトップを快走していたロズべルがその洗礼をうけ、右のリアタイヤのトレッド部分が剥離するトラブルにみまわれてリタイア。ロズべルグの最後のレースはこうして終わったのだった。
 この直後の64週目には、マンセルがブラバムストレートを全開の300K/hオーバーで走っている時に、左のリアタイヤが突然バースト。マシーンのボトムが路面に接触して、激しく火花を散らし、あわやというシーンだったが、マンセルの天才的なマシーンコントロールによりランオフエリアに停止することが出来たのだった。
 相次ぐタイヤトラブルに、グッドイヤーの技術者は各チームにタイヤ交換をするように通達をした。
 これを受けて、ウイリアムズは直後にピケをピットイン、タイヤ交換をしたが、プロストに約15秒先行されてしまった。
 その後、ピケは激走し、プロストとの差を詰めたが、最初のチェッカーを受けたのはプロストだった。
 こうして、1960年の“ジャック・ブラバム”以来、2年連続チャンピオンが誕生したのだった。
 激しく、過酷なこのレースは、F-1シーンでは忘れられないレースとして語り継がれることになったのだった。

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